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ググッと考える!

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なぜ私だけが苦しむのか?―人生が辛い…

 

今朝、職場に入るゲートの前で、あることに気がついた。
 
「か、カードキーがない・・・・!」
 
職場から自宅までは約15分。
私は必死に自転車のペダルを漕ぎ、数分前に登った急坂を下り、家に置き忘れたカードキーを手に掴むと、その坂をまた登らざるをえなかった。
 
自転車のギアを1にして坂道をぐっつりぐっつりと登りながら、東京の曇天に向けて叫んだ。
 
「汝は同じ失敗を何度繰り返すのか!この究極のゲスの極み乙女め!」
 
ここで大切なことは、私が8月生まれの乙女座であるということではない。言葉を武器とすることを生業とする人間が、独り言とはいえ「極」という字を重ねて使ってしまうほど、極限的な精神状態に追い込まれていたということである。(←3度め)
忘れ物、遺失物、落し物、紛失物の類が多い私にとって、人生は苦しみに満ちている。
 
以上は戯れ言である。閑話休題
 
 
※   ※   ※
 
 
世の中には「毎日楽しいことでいっぱいです!」と胸を張って言える人ばかりではない。
仕事がつまらない、試験に落ちた、人間関係がうまくいかない、お金がない、家族が疎ましい…毎日は辛いことであふれている。怪我や病気など、大きな不幸に見舞われることだってある。
なぜかいつも、人生は辛く、苦しいものだ。(他の人はもっとシアワセそうなのに!)
 
そんな苦しみに満ちた人生を「神さま」や「宗教」が救えるとすれば、それらを学ぶことは無駄ではない。それらに少しでも興味を持った人にぜひ読んでほしいのが、『なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 』という一冊だ。始めの一歩としては最適の本だと思う。
 
 
著者は1935年生まれ、ユダヤ教の聖職者(ラビ)。ユダヤ教というのは僕ら日本人には縁遠い存在に思えるし、これを学ぼうとするとけっこう骨が折れる。(「聖書には旧約聖書新約聖書があって、ユダヤ教旧約聖書だけを聖典と認め、キリスト教は両方を聖典とする」というような話を聞いたことがある人もいるかもしれない。)
 
とはいえ、この本はユダヤ教を紹介する本では全くない。神学や宗教についての小難しい話も一切ない。この本で語られるのは、本当に辛い時に、手を差し伸べてくれる神の姿だ。(その意味で、本書に登場する神は、一般的に説明されるユダヤ教キリスト教の神のイメージとは大きく異なっている。)
 
 
※   ※   ※
 
 
この本を初めて呼んだのは、東日本大震災が起きて数週間がたった後だった。当時は、日本中が悲しみに覆われながらも、この運命に立ち向かっていこうという勇気ある人々が現れていた。そんな時に出会った一節が忘れられない。
 

神は正義であり、公正であり、愛なのです。私にとって、地震は「神の行為」ではありません。神の行為というのは、地震が去ったあとで生活を立て直そうとする人々の勇気のことであり、被災者を助けるために自分にできることをしようと立ち上がる人々のことなのです。

 

著者によれば、神には善良な人たちにふりかかる災いを阻止することができないという。それなら、神はいったい何の役に立つというのだろうか?
 

確かに、(祈りによって)悲劇が回避されてしまうような奇跡を見ることはありませんでした。しかしあなたは、あなたの周りにいる人々を発見しましたし、あなたの側にいる神を発見しました。そして、悲劇にもめげずに生きぬく力強さを、あなた自身のなかに発見したのです。これこそ、祈りが答えられたことの証ではないでしょうか。

 

耐えねばならないことを耐えられるだけの力が与えられるように、その(病気の)子たちもまた祈るべきです。…家族の者が帰り、医師が去ったあとの真夜中の病院でも、神は病気の子供たちのそば近くにいるのです。

 
神というものは、私が悲しみにくれているとき、側にいて一緒に悲しんでくれる誰かを、私のもとへと遣わしてくれる存在ではないだろうか。もしくは、そのような「誰か」を遣わす代わりに、自らそっと私の側に座り、共に悲しんでくれる存在ではないだろうか。
 
宗教の声だけが苦しんでいる人に語りかけることができるのです。―「あなたは正しい人だ。あなたには、こんな出来事はふさわしくない。あなたが一人ぼっちでないことを知るために、私をあなたのそばに座らせてください」と。
 
この「宗教の声」の主が誰かはどうでもいいことだ。それがGodであっても、ヤハウェでもエホバでも、アッラーでも阿弥陀仏でも大日如来でも何でもよい。僕たちの心に語りかけてくれる「声」を聞き取ることができれば、それで充分だ。
 

痛みというのは、私たちが生きて存在するために支払う対価です。…私たちの質問は、「なぜ苦しまねばならないのか?」というものから、「ただ無意味でむなしいだけの苦痛に終わらせず、意味を与えるために、私はこの苦しみにどう対処したらいいのだろう?どうすれば、この苦しい体験が産みの苦しみ、成長の痛みになるのだろうか?」…に変わっていくことでしょう。

 

僕らはこの本を読んでから10年か20年後に気づくのかもしれない。
生きるとは、苦しみとともに歩むことなのだと。
強さとは、苦しみに意味を与えることができることなのだと。
 
 
 
品川皓亮