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日本人の「森の思想」―パレスチナになかったもの

 

京都で大学生をやっていた頃、よく旅をした。3年前の秋、ヨルダン川西岸パレスチナ自治区からエルサレムに戻るバスの中で、そそり立つ分離壁を横目に、あれこれ考えた。
 
 
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オマーンでは、凛と立つイスラム教のモスクで、人々が整然と横一列に並び、全身を使って祈りを捧げていた。
エルサレムでは、一切の偶像が排されたシナゴーグ(会堂)や「嘆きの壁」で、黒ずくめの男たちが体を揺らしながら絶叫していた。
ラオスでは、おばあちゃんや子どもたちが、お寺にある金ピカの仏像の前で、床に額をこすり付け、必死に両手をあわせていた。
ネパールでは、汗と煙の匂いが立ち込めるヒンドゥー寺院の軒先で、半裸で毛むくじゃらの老人たちが座り込み葉巻を吸っていた。
オーストリアでは、壮麗なキリスト教の教会で、ステンドグラスから差し込む光を受けながら、少年たちが聖歌を歌っていた。
 
僕が目にしたそれらの宗教施設は、人間が神とつながれる場所なのだろうと思う。
「神とつながる」という言葉が疑わしければ、「神性を感じる」と言ってもよい。特定の宗教を信仰していなくても、神性を感じることはできる。
それは、日常の生活から離れ、人間以外の何者かとつながっている感覚を覚えることだ。新渡戸稲造の言葉を借りるなら、「横の空気」ではなく「縦の空気」を吸うこととも言える。
 
日本のお寺や神社も、神性を感じることができる場所であることに違いはない。誰しも一度は、寺社を訪れて心をホッと落ち着けたり、何か偉大な力を感じたりしたことがあるのではないだろうか?
しかし、世界の様々な宗教施設と、日本の寺社との間には、一つの大きな違いがある。その違いとは何か。
 
 
…答えは、「森」である。
 
 
キリスト教の教会、イスラム教のモスク、ユダヤ教シナゴーグ上座部仏教のお寺、ヒンドゥー教の寺院、これらはいずれも、「森」なくしても存在しうる。周りに森がなくても、そこは人々にとって、神性を感じる場所になりうる。
 
海外でそういった場所を訪れたことがある人は、少し思い出してみてほしい。
そのような宗教施設は、往々にして、市街地のど真ん中にあったりする。四方はビルや住宅で囲まれており、立派な建物や庭はあっても、周辺や敷地内に木々が全くないことも多い。
 
しかし、人々はそこに集い、祈る。それが日常だ。
その時、彼らは森を必要としない。
 
 
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転じて、日本はどうだろうか。
皆さんがお寺や神社でしみじみと何かを感じることがあった時、そこに全く木々が存在しなかったことはあっただろうか?東京にはビルに囲まれた寺社が数多くあるが、私たちは、そこで神性を感じることができるだろうか?
 
 
…なかなか難しい気がする。
 
 
寺社に足を運んだにも関わらず、木々が一切なく、立派な建物や祭壇がドカンとあるだけだったら、残念に思うのが正直なところだろう。お寺や神社だもん、ちょっとは緑がほしいよね、というのが日本人だ。
 
日本の寺社が神性を備えるためには、森が不可欠だ。
 
出雲大社しかり、伊勢神宮しかり、鞍馬寺延暦寺しかりである。それらの神性は、背後の森に支えられているといっても過言ではない。
 
他方で、教会やモスクなどは、森がなくても十分に神性を備えている。
これはなぜだろう?
 
 
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僕らの意識の奥底には、「仏教」や「神道」という名前のついた宗教以前の、日本古来の感性が宿っているのではないかと思う。
それは、森に対する畏敬の念である。「森の思想」である。
 
仏教は中国から輸入された思想だし、神道は日本という国家が形成されるに従い理論化された教理だ。いわば、それらは「後付け」に過ぎない。
日本人はそのもっともっと昔から、森と共に生き、森を畏れてきた。そのDNAが、僕らの体の中にも埋め込まれているようだ。 
日本人の意識の通底では、森の思想が脈々と流れ続けている。現代を生きる僕たちの中にも、もちろんある。
 
これまで静かに眠っていた森の思想に光を当てる時、何が起きるだろうか。森の思想には、今日、この世界が直面している様々な問題に取り組むためのヒントが隠されているように思えて仕方ない。