ググッと考える!

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「プロ集団」にあって 「いい感じのサークル」にないもの(事例付き)

 
京都で観光の事業をしていた頃、チーム全体が「いい感じのサークル」のレベルを脱して、「プロ意識を持った集団」の仲間入りをすることを目指し、試行錯誤していた。その過程で、まず、目指すべきプロ集団とは何かを明確にしておく必要があることに気がついた。
 
プロ集団には様々なことが求められると思うが、僕が最も重要だと考えているのは、
 
「目的意識に貫かれた人間の集まりであること」
 
ということだ。
「目的意識に貫かれている」とは、あらゆる状況において、組織の目指すゴール(最終目標)に到達するためにベストの行動のみがとられることをいう。メンバーは、自分の一つ一つの言動について、それがゴールから逆算した「ベスト」であることを、説明できなければならない。
 
※   ※   ※
 
例えば、である。
 
ある社会問題の解決を使命とした、20人ほどの組織があるとしよう。その組織では、毎週月曜日の10時から定例ミーティングが行われている。
そこでは、各部門から前の週の成果報告などが行われた後、短期・中期目標の達成に向けた具体的な打ち手の話し合いがなされる。
 
ある定例ミーティングの終盤、メンバーのAは、他部門による報告にミスがあり、それゆえ「打ち手」も効果の薄いものになっていることに気がついた。
しかし、周りの皆は納得した表情で、ミーティングの締めに入ろうとしている。時刻は10時51分。定例ミーティングは、通常1時間以内に終わらせるルールとなっている。
 
この時、Aは何を考え、どのような振る舞いをするべきだろうか?
 
    1. まず考えられるのは、は「その場でミスを指摘する」という振る舞いだ。 Aが最低限の当事者意識を持ち、定例ミーティングの話し合いを自分事として捉えていれば、ミスをスルーするということはできないはずだ。
      こういう当事者意識を持ったメンバーが集まれば、「いい感じのサークル」にはなれるように思う。

    2. Aがもう少し成熟した「空気が読める」人材であれば、「その場の状況を総合的に勘案する」という発想が生まれる。
      その指摘は、本当に今、この場でしなければならないものだろうか?会議が10分長引い10分×20人=200分に相当するコストが発生するよりも、後から個別に担当者に問い合わせをした方がよいのではないか?
      こんなことが考えられれば、Aは、その場で指摘をすることのメリット・デメリットを比較した上で行動するだろう。この発想があれば、その組織が「いい感じのサークル」になれる可能性は高まる。
       
    3. 以上に対して、Aがプロ集団の一員なら、Aはその状況におけるベストの行動は何かを、組織の最終目標から逆算して考えることになる。
      その場でミスを指摘する、後から担当者に個別にメールを送る、会議を10分間延長することを提案するなど、行動の選択肢はいくらでも考えられる。また、その選択の決定にあたり考慮すべき要素も、そのミスの緊急度・重要度、組織にとっての定例会の位置づけ、チームメンバーの温度感…など、無数にある。
      だから、Aがとるべき行動について、一義的な正解はない。ただ一つはっきりと言えることは、Aに「なぜその行動をとったのか?」と問えば、その理由(Aなりの仮説)を答えることができるということだ。

 

1.のレベルでは、Aには自分だけが見えている。だからAは、自分の問題意識に沿って行動する。

2.のレベルでは、Aには組織全体が見えている。だからAは、組織全体の空気感を感じ取って行動する。

3.のレベルでは、Aは組織の最終目標だけを見つめている。だからAは、そこから逆算をして行動する。

 
※    ※    ※
 
繰り返しになるが、プロ集団は、「目的意識に貫かれた人間の集まり」である必要がある。
そのために、メンバーには「組織の最終目標から逆算されたベストの行動をとる」ことが求められる。言葉を変えると、そこには「組織の最終目標に貢献するか否か」という行動規範が浸透していなければならない。
 
ここでいう「行動」は、戦略上の意思決定など、事業の重要なシーンにおけるものに限られない。むしろ、日常のあいさつ、メールの返信、自分がミスをした時の態度、部下を叱る時の言葉選びなど、日常の1コマにおける一挙手一投足にこそ、行動規範の浸透度合いが如実に表れてくる。
 
そして、一見すると感情的な行動(ex.仲間に怒りをぶつける)に見えたり、空気が読めない行動(ex.会議のコンセンサスをひっくり返す発言をする)であっても、そのメンバーの「逆算」の結果、その行動がベストだと考える理由(仮説)がある限り、推奨されるべきことになる。(仮説が間違っていることが判明したら、次からそれを修正すればいいだけの話だ。)
 
※    ※    ※
 
長々と書いてしまったけれど、「最終目標から逆算されたベストの行動をとる」ということは、組織のリーダーならば日々当たり前にやっていることだろうと思う。問題は、その意識を、組織のフォロワーの側に立つ人間も持つことができるかだ。
その意味で、これはリーダーとフォロワー双方に共通して求められる資質だということになる。
 
おそらく、プロ集団における当事者意識は、「その組織の一員である」という意識では足りない。「自分がその組織のリーダーである」という仮定的な意識こそ、真に求められる当事者意識ということになる。

 

さよなら因果関係、こんにちは因縁

 
おそらく、「因果関係」は絶対ではない。
 
因果関係とは「原因と結果の関係」、つまり、「ある原因によってある結果が生まれる」という関係だ。しかし私たちは、大きく成功するためには「+α」の要素が必要であることを経験上知っている。
 
仏教では、それを「」と呼ぶ。結果は原「因」と「縁」が絡まり合って生まれる――これが「因縁」の考え方だ。「縁」は人知を超えた巡りあわせであり、私たちにコントロールできるものではない。
 
中道」(極端がないこと、偏らないこと)は仏教の重要なコンセプトだが、因果の法則から少し離れて因縁という視点を持つことで、人生の良い時も悪い時も、自分を見失うことなく中道を保てるように思う。
 
何かに成功したとしても、それは決して自分一人の力ではなく、周りの人々と縁のおかげだ。何かに失敗したとしても、それは決して自分一人の努力不足ではなく、縁がもたらした結果に過ぎない。「成功は努力の賜物、失敗は怠慢のせい」という考え方は、やや傲慢な気がする。人間の力はそんなに大きくない。
 
※     ※     ※
 
どんなに努力しても、縁がなければ望む結果は得られない。だから、「人生はままならないものである」と仏教は説く。本来的に「ままならないもの」を無理やり思い通りにしようとするから、ひずみが生じる。冬に桜が咲くように四苦八苦するよりも、やがて来る春を待つ方がいい。
 
諦観とは、「ままならないものである」ということを受け入れること。「諦める(あきらめる)」とは「明らめる」、すなわち、真理の一片が明らかになることだと思う。
 
 

ぼくの「志」はただの名誉欲だったのか?・・・欲望を「善用」する!

 
自分を含め、今、20歳〜30歳くらいの年齢にある若い人たちは、「社会貢献」という言葉に敏感な気がする。そしておそらく、ここ10年くらいの間で、自ら事業を起こす(=起業する)ことを目指す若者も多くなったと思う。
そんな人たちの中には、「社会に貢献する仕事がしたい!」「◯◯を通して世界を変えたい!」というアツい想い(=「志」)を持ち、実際に国際機関で働いたり、独立して起業をする人も少なくない。
 
ところが、このような立派な「志」を持った人たちの心の中に、一つの懐疑が浮かんでくることがある。
 
「自分は必死に【志】を喧伝するけれど、実は、皆から『すごい!』と思われたいだけなのではないか?
本当は『皆から注目されるカッコイイ自分』に憧れているだけであって、『社会のため』というのは二の次なのではないか?
これって結局、自己満足・・・?」
 
こういった疑問が、頭をもたげてくる。
特に、周りのオトナたちから「『社会に貢献したい』ってどういう意味?そもそも社会に貢献していない仕事なんてあるの?」とか、「君の場合、『起業すること』が目的になっていない?」とかいうツッコミを入れられると、結局のところ、自分のモチベーションの源泉が実は名誉欲や自己承認欲求にあったということに気付きはじめる。
 
個人的には、他人に何と言われようと、どんなに心が揺れようと、一度生まれた「志」をしれっと脇に置いたり隠してしまったりしてはいけないと思う。
どんなに浅はかで独りよがりなものであっても、「志」を持つことは無条件で尊い。人は「志」を持っているか否かによって、「青年」と「老人」に分けられるからだ。
そんなに大切なものを、簡単に捨ててはいけない気がする。
 
では、タテマエ(志)とホンネ(名誉欲・自己承認欲求)を、自分の中でどう整理すればよいのだろうか?
 
※    ※    ※
 
ここでは、「善用」という言葉がキーワードになる。
心の底に眠る名誉欲や自己承認欲求に気がついた時、「この欲望を善用できないか?」と考えてみるとよいと思う。
 
仏教において、欲望は基本的にネガティブな意味を持つ。
「人間は欲望を持つ生き物だ、その欲望が100%満たされることは決してない、だから人生は苦しみに満ちている」、これが仏教の根本的な発想だ。
しかしここではあえて、「欲望があるから苦しみが生まれる、だから欲望を手放そう」という仏教的なアプローチとは違う方法をとってみたい。
 
たしかに欲望は苦しみの源泉でもあるが、それと同時に、行動力の源泉(エネルギー)であると言ってよい。
だから、「志」の背景に自分の欲望を見つけても、恥ずかしいことはまったくない。問題は、その欲望(エネルギー)をどう使うかだ。
 
そこで、「善用」というキーワードが重要になる。
 
僕らが目指すべきは、欲望を「善く用いる」ことではないだろうか?
欲望を自分中心の狭い世界に押し込めるのではなく、むしろ社会に開放するのだ。欲望が社会と接点を持つ時、そこに欲望を善用する可能性が生まれる。
 
人間が欲望に振り回されて生きる動物であることは変えることができない。他方で、人間は社会的な動物であることもまた事実だ。
とするならば、己の欲望と社会のニーズがぶつかり合うところに「志」が生まれるのではないかと思う。
 
※    ※    ※
 
では、欲望を「善く用いる」という時の「善い」とは何を意味しているのだろうか?
その答えは、人によって異なる。
 
すなわち、その人が何を「善い」ものとするかは、まさしく、その人の価値観や信念、人間性そのものにかかっている。
山を切り拓いて観光施設を作り、地元の人々の雇用を創出することは「善い」ことか?廃棄食材を集めて家のない人々に分け与えることは「善い」ことか?
 
絶対的な答えはない。
だからこそ、せっかく冒頭の「懐疑」にぶち当たることができた幸運な人たちは、その欲望の方向性について、常にチェックしていかなくてはいけない。自分は、欲望を善く用いることができているだろうか?
 
名誉欲や自己承認欲求に限らず、金銭欲や、支配欲や、物欲や、性欲でさえ、人間にはそれを善用する能力が備わっている。(たぶん)
 
 

自分の「素養」を見抜く3ステップ―「僕」を99%晒しちゃいました…!

 

今回は勇気を出して、自分自身を晒け出したいと思います(笑) 

ある方と年末にじっくりお話をさせていただいて、こんなことをお聞きしました。

 

キャリアを考えるとき、その人の持っているものは2段階に整理できる。(1段目の上に2段目が乗っかっている。)
1段目は素養。これは、その人の性格、人間性、人格。素養はプラスとマイナスが表裏一体になっている。
2段目は経験。これは、その人が実際に何をしてきたか。職務履歴書に書くようなもの。

 

当然といえば当然のことですが、「たしかに!」と思いました。

そこで、年末年始に、
・2015年の振り返り
・2016年の目標
・今後の人生約80年の方向性
を考えるにあたり、この整理の仕方を活用してみようと思いつきました!
これらを考える前提・材料として、今回は、自分の持っている「素養」について、プラスの側面とマイナスの側面という観点から観察してみることにしたのです。
これがなかなか面白かった(有益だった)ので、その方法をシェアしたいと思います!
 
方法は次の3ステップ。いたってシンプルです。
 
(1)紙の中心に縦線を引いて左右に分けて、左を「プラスの側面」、右を「マイナスの側面」の欄とする。
 

プラスの側面

マイナスの側面

 

 

 

 

 

 

 

 

 
(2)自分の長所や強みとして思いつくものを「プラスの側面」に、短所や弱みとして思いつくものを「マイナスの側面」に書き出してみる。
 
※思いつく限り、順番や体裁は気にせずできるだけたくさん書きまくる!!(この時点で、これに対応する「マイナスの側面」の欄、「プラスの側面の欄」は空欄でOK)
例えば、こんな感じです。(これは僕の長所・短所ではありません。笑)
 

プラスの側面

マイナスの側面

人と話して楽しませるのが得意

 

 

人の気持ちに鈍感である、思わぬ言動で人を傷つける

物事を論理的に考えられる

 

 

飽き性ですぐに投げ出してしまう

 
(3)(2)で書き出した事項について「裏返すとどうなるか?」を考え、対応する反対側の欄を埋めていく。
 

プラスの側面

マイナスの側面

人と話して楽しませるのが得意

 交友関係が浅く広い、そこから深まらない

周りの目を気にすることなく信念に基づいて行動できる

人の気持ちに鈍感である、思わぬ言動で人を傷つける

物事を論理的に考えられる

自分の意見が正しいと信じ、他人の意見を初めから否定してしまう

 興味があることに何でもチャレンジできる

飽き性ですぐに投げ出してしまう

 
は〜い、これだけです!
こうやって欄がどんどん埋まっていくと、かなり達成感がありますね〜
しかも欄が埋まれば埋まるほど、自分という存在の輪郭が浮かび上がってくるようで、なかなか面白いです。
 
欄が埋まったら、余裕がある人は、もう一工夫として、内容の再構成をしてみるとよいでしょう。とりあえず書きまくった内容を、自分なりにわかりやすい方法で整理してみるわけです。
例えば、自分にとって大きな特徴となる素養を、上から順に並べていってもよいでしょう。
 
僕の場合は、「プラス・マイナスの側面を持つ素養」という整理ではなく、「長所ではあるが、まだまだ足りていない部分や伸びしろがある」という整理をした方がしっくりした項目もたくさんあったので、書き出した内容を、
 
①プラスとマイナスの側面を持つ素養
②プラスの素質・能力と成長の伸びしろ
 
という2つに再構成して、表で整理しました。
 
具体的には、以下のような感じです。
 
①プラス・マイナスの側面を持つ性格・特徴

 

プラスの側面

マイナスの側面

慎重、よく考える、入念

優柔不断、即断即決できない、直観を信じない、迷う、リスクを取らない、安全志向

謙虚、素直、人のアドバイスを受け入れる柔軟な心

自信が足りない、悲観的、マイナス思考、アピールが苦手

常識・良識がある

トガリがない、大胆な発想・行動がない、小さくまとまった人生

真面目、誠実

考え方が硬直的、言動に面白みがない、遊び心がない

傾聴する力(人の話を聞いて引き出す)、共感する力

受け身、面白いことや気の利いたことが言えない、雑談に苦手意識がある、場を盛り上げられない

時間とお金を大切にする

自己中心的、自分の損得勘定だけを考える、打算的、「楽しみ方」を知らない

どんなことである程度上手にできる

器用貧乏、軸がない、熱狂できるものがない

繊細、人の心の動きに敏感

人の目を気にする、ビビり過ぎる、怒られることを恐れる

内省する力(自分の内面を観察、言語化できる)

うじうじ考え過ぎてしまう

文書を書く力、読む力がある

非言語的なコミュニケーションや芸術への感度が低い

 
 
②プラスの素質・能力と成長の伸びしろ
 

プラスの素質・能力

不足している部分、成長の伸びしろ

目標に向けて努力し、成功させられる

自分自身の人生にとって価値のある「目標」に向けた努力が必要

社交的、コミュニケーション力がある、人当たりが良い

「初対面の人との雑談、人を褒めること、人に自分から話しかけること、人の懐に入っていくこと、自分よりすごい人にアプローチすること」に苦手意識がある

積極性、行動力がある

同年代のスゴイ人たちと比べて圧倒的に行動力が足りていない。生きている世界が狭く、安全なところから踏み出せていない。「冒険力」が足りない。

段取り力、物事を企画・実行する力がある

より大きな規模を経験する、「周りの人を喜ばせる」ことを常に考えて行動できる人を目指す

難しいことをわかりやすく伝える力、再構成力、プレゼン力、表現力

方法論を言語化して再現性を持たせる、他の人にも方法論をシェアする

文書を書く力、読む力がある

非言語的なコミュニケーションや芸術への感度が低い→よりクリエイティブな分野に挑戦

読書による思想・宗教の知識と興味

これを仕事や実生活に活かす術を見つけられるとなお良い

優しい心、弱い人の気持ちになって考えることができる

困っている人や貧しい人に身銭を切って手を差し伸べていない。行動が伴っていない。

人と違う行き方を恐れない、面白く感じる

まだ小さい枠に収まっている→より大胆に発想する

マッサージが得意

これを活かして人脈を広げられないか?(無償なら資格は不要)

日記を毎日つけている(5年目に突入)

この調子でいこう!

 
どうでしょう?だいぶ赤裸々に自分自身が明らかにされた気がします…
 
自分で自分を観察したことの99%はここに表すことができたいと思いますが、残り1%はちょっと恥ずかしいのでカットしました(笑)
皆さんも、ぜひ試してみてください!
 

魅力的な人物に共通する「大きな心」と「小さな心」とは?

 
多くの人を惹きつける魅力的な人には、共通点があると思う。それは大きな心小さな心という、2つの「心」を持っていることだ。僕はこの2つの心を持つ人に憧れ、自分もそうなりたいと強く願っている。
 
※      ※      ※
 
「大きな心」とは何だろう?それは、夢や希望を持つ心、志や使命感を持つ心だ。「野心」と言い換えてもいい。遥か彼方に定めた目標を目指して、一歩一歩進んでいく原動力となる心だ。
 
当たり前かもしれないが、「大きな心」は大きければ大きいほどいい。宇宙のように、際限なく広がっていく方がいい。それまで誰も思いつかなかったでっかい夢を掲げ、壮大な物語を真剣に語れる人は、ただそれだけで人の心をぐっと引き寄せる。
 
では、「小さな心」とは何だろう?それは、感謝する心、喜びを感じる心だ。
あたたかい布団や一杯の白飯に感謝し、道端に咲く小さな花や季節ごとの虫の音色に喜びを感じるためには、「小さな心」が必要だ。そもそも、自分を支えてくれる有形・無形の「財産」に気づけなければ感謝はできないし、日常生活の中に幸せの欠片がたくさん落ちていることに気づけなければ、喜びを感じることもできない。
 
「小さな心」は、小さければ小さいほどいい。たった一滴の水で満たされる匙のように、「小さな心」はちっちゃくなければならない。小さければ小さいほど、それはすぐに満たされ、感情が心の中から溢れてくる。そこから溢れ出た幸せを、周りの人は分かち合うことができる。
 
※      ※      ※
 
あえて嫌な言い方をすれば、「小さな心」を持たずに「大きな心」だけを持つ人は、虚しき英雄だ。誰もそんな人の側にいたいとは思わないし、その人のために力を尽くしたいとも思わない。
 
反対に、「大きな心」を持たずに「小さな心」だけを持つ人は、人畜無害な小市民だ。彼の話を聞いて心躍ることはないだろうし、彼が僕たちの人格や能力を引き上げてくれることもないだろう。
 
だから、魅力的な人には2つの心が共に必要なのだ。大きな心はより大きく、小さな心はより小さく。日々それを心がけることによって、僕たちも魅力的な人物に近づいていくことができるような気がする。
 
※      ※      ※
 
金子みすゞさんの「こころ」という詩を読み返してみて、以上のようなことを考えた夜でした。
 
「こころ」
 
おかあさまは
おとなで大きいけれど、
おかあさまの
おこころはちいさい。
だって、おかあさまはいいました、
ちいさいわたしでいっぱいだって。
 
わたしは子どもで
ちいさいけれど、
ちいさいわたしの
こころは大きい。
だって、大きいおかあさまで、
まだいっぱいにならないで、
いろんなことをおもうから。