ググッと考える!

大手法律事務所の弁護士から株式会社LiBに移籍! https://www.libinc.co.jp

弁護士の道を捨て、ベンチャーに入った本当の理由(前編)

  
先月、僕は弁護士300名以上を擁する大手の法律事務所を辞めて、株式会社LiBという創業2年ちょっとのベンチャーに入った。
 
法務担当ではなく経営者になることを目指す一人の「新人」としての入社で、今は事業づくりや組織づくりに必要なあらゆることを経験している。
実際のところ、仕事をしていて弁護士としての知識や経験が役立つシーンはほとんどない。
 
 
 
・・・なぜ、こうなっ(てしまっ)たのだろう?(笑)
 
 
 
自己紹介も兼ねて、僕が弁護士の道を捨ててLiBに入った理由について書いてみたいと思う。
(今日は前編として、僕が弁護士事務所を辞めた理由について、次回は後編として、僕がLiBに入った理由について、書いていきたい。)
 
 
※         ※         ※
 
 
僕はなぜか高校生の頃から哲学に興味を持ち、「神さまは本当にいるのか?」とか、「そもそも『いる』とは何だろう?」ということを本気で考え、ノートにまとめたりしていた。
最終学年に上がる頃、高校を卒業した後に何をしたいのかを考えた。結果、答えのない問いについてとことん追究してみたいと思い、哲学を学ぶために京都大学に進んだ。
 
ところが残念なことに、大学の授業で習う哲学には全く面白みを見いだせなかった。
難しい言葉が耳から耳へと通過し、いたずらに本の文字を追って時間だけが過ぎていく気がした。
 
「これじゃダメだ!!!」
 
と僕は焦った。
全身全霊をかけてがんばれる「何か」が欲しかった。
 
そんな焦りが募っていた頃、たまたま講義を受けた法律科目に興味を持ち、司法試験合格という明確なゴールが存在する世界に憧れ、法学部に転部した。
その頃の僕は「目標」に飢えていたように思う。
 
転部した後はそれなりに勉強を続け、法律の勉強は好きだしせっかくこれまで勉強してきたから、という「何となく」な理由で、特段の決意もなくロースクールへの進学を決めてしまった。
 
 
※         ※         ※
 
 
ロースクールが始まる直前の春休み、ようやく、自分はどんな人生を生きたいのかを本気で考えるようになった。
僕にとって「どんな人生を生きたいか」という問いは、「どう死にたいか」という問いと同義だった。
 
自分が死ぬ瞬間、どんな状態になっていれば満足して死ぬことができるだろうか?
 この問いについて思考を重ねた結果、
 
①大きな事をすること(あるべき未来に対して大きく貢献すること)
②オリジナリティ溢れる、自分だけの人生を歩むこと
③心がやさしい人でいること
④家族を大切にすること
 
という4つの要素が満たされれば、満足して死ぬことができると気がついた。
これが僕の、最も根本的な欲望だったのだ。
 
僕は①〜④を、自分の「価値観」と呼んだ。
人生を叶えるためには、自らの生き方を「価値観」に合致させていく必要がある。
 
「心惹かれることをしよう。心の声に従おう。」
 
人生を選び取っていく時、これ以外の「基準」はないと思った。
自分の人生は自分で舵取りしなければならないということに、ようやく気づいたのだ。
 

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※         ※         ※
 
 
20歳になる少し前、友人の勧めで渡邉奈々さんの『チェンジメーカー』という本を読んだ時の感動が忘れられなかった。
事業を通して世界に貢献する人たちに憧れ、素直に「かっこいい!」と思った。
 
他方で、自分が進みつつあった法律家の道は、必ずしも自分の価値観とは合致していないようだった。
自分が弁護士として働いている姿を想像した時、それほど心惹かれなかった。
 
心の声をよく聞いて、結論が出た。
 
「挑戦の舞台が見つかるまで、法律家の道で全力を尽くす。
 舞台が見つかったら、迷わず飛び込む。」
 
当時の僕には「法律」という武器しかなく、それを捨ててまで飛び込むべきフィールドは見えていなかった。
だからまずは一人前の法律家になることを目指し、TMI総合法律事務所に入ろうと決めた。
 
 
※         ※         ※
 
 
しかし、探し続けることを諦めてはいけなかった。
何かを選ぶことは、何かを捨てることだ。
「舞台」がいつ見つかるかはわからないけれど、この決意により霧は晴れた。
 
岡本太郎の言葉は、いつも僕を支えてくれた。
 
「人生は積み重ねだと、誰でも思っているようだ。ぼくは逆に、積みへらすべきだと思う。財産も、知識も、蓄えれば蓄えるほど、かえって人間は自在さを失ってしまう。過去の蓄積にこだわると、いつの間にか堆積物に埋もれて身動きできなくなる。
…捨てれば捨てるほど、いのちは分厚く、純粋にふくらんでくる。今までの自分なんか、蹴トバシてやる。そのつもりで、ちょうどいい。」
 
「一方はいわばすでに馴れた、見通しのついた道だ。安全だ。
一方は何か危険を感じる。もしその方に行けば、自分はいったいどうなってしまうのか。
不安なのだ。しかし惹かれる。
…たしかに危険を感じる。そっちへ言ったら破滅だぞ、やめろ、と一生懸命、自分の情熱に自分で歯止めをかけてしまう。
しかし、よく考えてみてほしい。…なぜ迷うのか。…迷うことはないはずだ。もし食うことだけを考えるなら。
そうじゃないから迷うんだ。危険だ、という道は必ず、自分の行きたい道なのだ。ほんとうはそっちに進みたいんだ。だから、そっちに進むべきなんだ。」
 
「イバラの道に傷つくことが、また生きるよろこびなのだ。…たんたんとした道をすべって行くむなしさに流されてしまわないで、傷つき、血のふき出る身体をひきずって行く。
言いようのない重たさを、ともども経験し、噛みしめることだ。それが人生の極意なのである。」
 
(『自分の中に毒を持て』)

  

※         ※         ※
 
 
もしかしたら、自分の選択は間違いかもしれない。
惨めな姿を晒すかもしれない。
 
でも、彼は言うのだ。
 
「負けた者こそバンザーイと、大いに胸を張ってにっこりする、これだよ。」
 
(『強く生きる言葉』)
 
なるほど。
じゃあ、まぁいっか(笑)
 
これで、準備は整った。
あとは「舞台」を探すだけだった。
 
(つづく)
 

「悩みの踊り場」で踊り続けていた残念な僕

 

LiBに入って3週間が経った。
仕事はまだまだ上手くいかないことばかりだけど、少しうれしいことがあった。
それは、
 
「毎日『悩みの階段』を昇っている」
 
という実感があることだ。
 
人が大きな目標を達成するためには「悩み」が不可欠だ。
それはメキメキと伸びていくための成長痛といってもよい。
だから、悩むこと自体は決して悪いことではない。
 
ただ僕たちは、「自分は『悩みの階段』を昇れているか?」ということは常にチェックしないといけない。
 
昨日よりも一歩「先」のテーマについて、僕たちは頭を悩ませないといけない。
1年前と全く同じことをあれこれ考えている人に、成長はない。
 
※         ※         ※
 
数年前、僕はずっと、「せっかく一生懸命法律の勉強をしてきたのに、弁護士の道を捨ててしまって本当にいいのかな?」ということを考えていた。
 
やっとのことで、「大事なのはこれまで何を積み重ねてきたかではなくて、これから自分が何をしたいかだ!」と気づいた後は、「じゃあ何をすればいい?起業?ベンチャー?で、どのベンチャーに行けばいいの?」ということにこれまたずっと悩んでいた。
 
僕は、悩みの階段を昇らずに「踊り場」で踊り続ける残念な人だった。
これでは次に進むことはできない。
 

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悩みの階段を昇るペースを上げるためには、例えば以下のようなことが必要だと思う。
 
①既存の悩みの解消
今直面している課題に対する「打ち手」を出し尽くし、その課題をクリアする
 
②悩みの先取り意識
最終目標から逆算して、「自分の次の課題は何か」を常に考える
 
③悩みの御用聞き
自分を客観的に評価してくれる人に「何を課題として設定すればよいか」を聞いて回る
 
また、いくつかの選択肢で悩んでいるような場合には、「仮説を立て、その仮説に基づき意思決定を行い、それを検証する」というのが最も手っ取り早い。
 
仮にその意思決定が間違っていたのなら、またやり直せばよい。
一歩「先」の悩みにより早く出会うためには、早めに仮の意思決定をすることが肝要だ。
 
(他にも何かいいアイディアは色々とありそうなので、皆さまにぜひ教えていただきたいです…!)
 
※         ※         ※
 
LiBに入って1週目は、新しい職場環境に慣れるので精一杯で、全力で仕事に集中できないことに悩んでいた。
2週目は、時間をかけても何も具体的な成果につながらないことに悩んでいた。
そして3週目は、お客様との時間をお互いに価値ある時間にするためにはどうすればよいかということに悩んだ一週間だった。
 
まだまだ悩みの階段を昇るベースが遅いのが悔しいところだけれど、愚直にやっていくしかない。
 
数少ない僕の自慢の一つは5年日記を毎日つけていることで、例えば5年前の今日、自分が何に悩んでいたかを知ることができる。
 
一年後、2016年8月の日記を振り返ってみて、「こんなしょっぼいことに悩んでたのかー!」と笑えるように、先へ先へと進んでいきたいなと思った!
 
(ちなみに、「踊り場」という言葉の由来には諸説あるそうだ。「昔はあそこで人が踊っていた」とかいうわけでもなさそう…。)
 
 
 
 

「PDCAを高速で回す」って何やねん!?…と思った話

 

ベンチャーに興味を持ち始めてからちょくちょく耳にするようになったPDCAを高速で回す」という言葉。
これまであまり実感が湧かなかったけど、LiBに入って2週間が経ち、「高速で回す」という言葉の一つの側面が見えてきた気がする。
 
言わずもがなだけど、PDCAとは「Plan(計画)→Do(実行)→Check(評価)→Action(改善)」のことだ。
もう少しわかりやすく言うと、以下のようなイメージだろうか?
 
P=これをやってみよう
D=やってみた!
C=どうだった?
A=次は何をすべき?
 

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これを「高速で回す」とは、簡単に言うと、
 
「試しにやってみて、改善してまた試しにやってみる」
 
というサイクルの「回数」を多くするということではないだろうか?
とにかく「回数」で勝負するのだ。
 
(僕のような)わりと真面目な人の場合、「仕事ではPDCAが大事」と言われると、
 
「よし!じゃあ週のはじめにその週の目標を考えて(Plan)、平日に実行し(Do)、週末に反省点(Check)と改善策(Action)を考えよう!」
 
という感じで考えがちだ。
 
こうすると、PDCAの「サイクル」は一週間に1度回ることになる。
もちろんこうやって週ごとの反省をするのも大切なんだけど、これだとあまり「高速」な感じはしない…。
 
 
※          ※          ※
 
 
では、1日を午前・午後・夕方の3つに分けてみるとどうだろう?
 
朝、午前中にトライすることを何か一つ決めて、午前中はひたすらそれを繰り返す。これがPとDだ。
お昼ごはんを食べながら、午前中のトライが奏功したかを考えて、改善点を探してみる。これでCとAも完了。
すると、午後はまた違うトライができることになる。夕方も然りだ。
 
この方法なら、1日に3回「サイクル」を回すことができる。
1つのサイクルが終わるごとに、1つの「果実」(気づき、成長)を得ることができるのだ。
 
もちろん、PDCAの「質」の観点からは、1週間に1度じっくりと時間をとって反省をしたりするほうがよいのかもしれない。
ただ、「PDCAを高速で回す」という言葉は、そのような「質」より「回数」を意識した方が結果として成長スピードが早いという仮説のことを言っているように思う。
 
実際、真面目な人が1週間に1度じっくり反省の時間を設けている間に、ある人は1日3回×5日間(平日)=15回のサイクルを回しているのだ。
こう聞くと、たしかに後者の方が勝率が高いかも…と思えてくる。
 
 
※          ※          ※
 
 
上長からLiBでの2週目のフィードバックをもらい、PDCAという言葉について以上のようなことを考えた。
 
吉田松陰西郷隆盛にも大きな影響を与えた陽明学には、知行合一という有名な言葉がある。「知ること」と「行うこと」は一つであり、分離不可能であるという考え方だ。
 
PDCAという用語の意味を把握しているだけでは意味がない。それを実行してしみじみと何かを感じ取った時にはじめて、本当に「知る」ことができるのだろうと思った。
 
今回は超短期的なPDCAについて考えてみたけど、中長期的な観点からのPDCAとはどんなものだろう?
こちらはまだ未経験なので、これから探っていきたい!
 
 

ベンチャー入社4日の超ど素人(弁護士)が感じた「営業」の本質

 

法律事務所を辞めてLiBで働きはじめた第1週(4日間)が終わった。

第1週は、生まれて初めて法人営業(テレアポ!商談!)というものを経験。1ヶ月前まで弁護士として訴状や準備書面を作り、裁判所に行って法律業務をしていたと思うと、何だか感慨深い…(笑)

 

実はまだ自分一人で営業に行ったことすらないけれど、素人なりに「営業」の本質について「こういうことかな?」と考えたことがあるので、早速メモ!(少し経験を積んだ後に、ここに書いた仮説が合っていたかをチェックしてみたいですね。)

 

※         ※          ※ 

 

まず、現在の自分の理解で、営業職を以下の図のように3つのレベルに分けてみた。

 

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■レベル1 「ひよっこ」レベル

まずは一番「ひよっこ」なレベルがこちら。営業に行く大前提としての心構えともいえ、「自社(商品)への愛情」「顧客への献身」から成る。

自社やその商品に対する愛着や誇りがないと本気で営業するのは難しいし、「お客さんの役に立ちたい!」という思いがなければ、話をしても意味がない。ただし、「献身」は阿諛追従することではなく、対等なパートナーとして相手に貢献するということを意味する。

愛情と献身の二つが、営業力の土台になるようだ。

 

■レベル2 「一人前?」レベル

次は、やっと一人で営業に行けるというレベルだ。そのためには、最低でも以下の3つの事柄を明確に言語化し、それを顧客に伝えることができなくてはならない。

 

a 顧客の顕在課題

 顧客が現状で抱えている課題。商談の中でヒアリングする必要がある。

b 自社商品の特徴

 自社商品のメリット・デメリット。

c 自社商品が顧客の顕在課題を解決する姿

 aがbによって解決され、メリットがコストを上回っている具体的なイメージ。

 

このレベルにおいては、aとbを具体的に把握し、それを掛け合わせてcのイメージを描き、それを顧客の頭の中にも鮮明に浮かび上がらせる力が必要になる。

ただし、この程度だとまだ営業としては一人前とはいえないのかもしれない。

 

■レベル3 「完全体」レベル

進化の最終段階は、レベル2の延長線上にあるけれど、一つ一つのステップにおいてレベル2を上回る。ここでは、以下の3つの事柄を明確に言語化し、それを顧客に伝える能力が要求される。

 

A 顧客の潜在課題

 顧客がまだ認識しておらず、「御社の課題は何ですか?」と尋ねた時に回答としては返ってこない課題。「見えない」課題を言い当てられた時、顧客の信頼度はグッと高まる。

B 自社のリソース

 既存の商品にとどまらず、自社全体で有しているあらゆるリソース。

C 自社のリソースが顧客の潜在課題を解決する姿

 AがBによって解決され、メリットがコストを上回っている具体的なイメージ。 

 

レベル3の営業は、顧客に「気付き」を与える。そして、今手に持っている商品リストにとどまらず、自社の全てのリソースを考えて、顧客の潜在課題を解決できないかを考える。ここが理想だ。

 

※         ※          ※ 

 

自分のような素人が営業に挑戦する場合、レベル3を見据えつつ、まずはレベル2を目指すことになりそうだ。もう少し経験を積むと、もしかしてレベル4とかレベル100も見えてくるのだろうか…(笑)

 

この記事を書いている時に、営業としては大先輩の友人から、「全ての条件や行動を数値化してPDCAを高速で回す」方法や「『お前おもろい奴やなー』と言われる行動でお客さんの懐に入り込む」方法で成功をおさめている事例を聞いた。

要は自社や自分の強みやキャラクターを貫徹できるのかがポイントになりそう。何を売るかによっても、方法論は大きく変わるのかな?

 

※         ※          ※ 

 

色々書いてきたけど、まだ実践が伴っていないので、とりあえず色々試してみたいと思います!すべてがとても楽しみ!

ぜひ皆さまオフィスに遊びに来てください!そして人材や中途採用の点で課題を感じておられる会社さんがありましたら、どうぞご連絡ください(笑)

 

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日本人の「森の思想」―パレスチナになかったもの

 

京都で大学生をやっていた頃、よく旅をした。3年前の秋、ヨルダン川西岸パレスチナ自治区からエルサレムに戻るバスの中で、そそり立つ分離壁を横目に、あれこれ考えた。
 
 
※       ※       ※
 
 
オマーンでは、凛と立つイスラム教のモスクで、人々が整然と横一列に並び、全身を使って祈りを捧げていた。
エルサレムでは、一切の偶像が排されたシナゴーグ(会堂)や「嘆きの壁」で、黒ずくめの男たちが体を揺らしながら絶叫していた。
ラオスでは、おばあちゃんや子どもたちが、お寺にある金ピカの仏像の前で、床に額をこすり付け、必死に両手をあわせていた。
ネパールでは、汗と煙の匂いが立ち込めるヒンドゥー寺院の軒先で、半裸で毛むくじゃらの老人たちが座り込み葉巻を吸っていた。
オーストリアでは、壮麗なキリスト教の教会で、ステンドグラスから差し込む光を受けながら、少年たちが聖歌を歌っていた。
 
僕が目にしたそれらの宗教施設は、人間が神とつながれる場所なのだろうと思う。
「神とつながる」という言葉が疑わしければ、「神性を感じる」と言ってもよい。特定の宗教を信仰していなくても、神性を感じることはできる。
それは、日常の生活から離れ、人間以外の何者かとつながっている感覚を覚えることだ。新渡戸稲造の言葉を借りるなら、「横の空気」ではなく「縦の空気」を吸うこととも言える。
 
日本のお寺や神社も、神性を感じることができる場所であることに違いはない。誰しも一度は、寺社を訪れて心をホッと落ち着けたり、何か偉大な力を感じたりしたことがあるのではないだろうか?
しかし、世界の様々な宗教施設と、日本の寺社との間には、一つの大きな違いがある。その違いとは何か。
 
 
…答えは、「森」である。
 
 
キリスト教の教会、イスラム教のモスク、ユダヤ教シナゴーグ上座部仏教のお寺、ヒンドゥー教の寺院、これらはいずれも、「森」なくしても存在しうる。周りに森がなくても、そこは人々にとって、神性を感じる場所になりうる。
 
海外でそういった場所を訪れたことがある人は、少し思い出してみてほしい。
そのような宗教施設は、往々にして、市街地のど真ん中にあったりする。四方はビルや住宅で囲まれており、立派な建物や庭はあっても、周辺や敷地内に木々が全くないことも多い。
 
しかし、人々はそこに集い、祈る。それが日常だ。
その時、彼らは森を必要としない。
 
 
※       ※       ※
 
 
転じて、日本はどうだろうか。
皆さんがお寺や神社でしみじみと何かを感じることがあった時、そこに全く木々が存在しなかったことはあっただろうか?東京にはビルに囲まれた寺社が数多くあるが、私たちは、そこで神性を感じることができるだろうか?
 
 
…なかなか難しい気がする。
 
 
寺社に足を運んだにも関わらず、木々が一切なく、立派な建物や祭壇がドカンとあるだけだったら、残念に思うのが正直なところだろう。お寺や神社だもん、ちょっとは緑がほしいよね、というのが日本人だ。
 
日本の寺社が神性を備えるためには、森が不可欠だ。
 
出雲大社しかり、伊勢神宮しかり、鞍馬寺延暦寺しかりである。それらの神性は、背後の森に支えられているといっても過言ではない。
 
他方で、教会やモスクなどは、森がなくても十分に神性を備えている。
これはなぜだろう?
 
 
※       ※       ※
 
 
僕らの意識の奥底には、「仏教」や「神道」という名前のついた宗教以前の、日本古来の感性が宿っているのではないかと思う。
それは、森に対する畏敬の念である。「森の思想」である。
 
仏教は中国から輸入された思想だし、神道は日本という国家が形成されるに従い理論化された教理だ。いわば、それらは「後付け」に過ぎない。
日本人はそのもっともっと昔から、森と共に生き、森を畏れてきた。そのDNAが、僕らの体の中にも埋め込まれているようだ。 
日本人の意識の通底では、森の思想が脈々と流れ続けている。現代を生きる僕たちの中にも、もちろんある。
 
これまで静かに眠っていた森の思想に光を当てる時、何が起きるだろうか。森の思想には、今日、この世界が直面している様々な問題に取り組むためのヒントが隠されているように思えて仕方ない。