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エリートのための仏教か、大衆のための仏教か、それとも…

前回は主に小乗仏教上座部仏教)と大乗仏教について書きましたが、今回は後者の大乗仏教について、もう少し詳しく見ていきましょう!

前回お話ししたとおり、大乗仏教は、エリート主義・出家主義・戒律主義の小乗仏教に対するアンチテーゼとして生まれました。

 

「煩悩から逃れて山に篭もることなかれ。大衆を救うために山を下りよ」

 

これが大乗仏教の教えです。大乗仏教の立役者といえば、龍樹や鳩摩羅什といった仏僧が挙げられます。インドの龍樹が基本となる思想を打ち立て、訳経者である鳩摩羅什がそれを中国にもたらしました。そして、日本は中国から大乗仏教を「輸入」したわけです。

 

しかし、日本の仏教者たちは、「輸入」された大乗仏教をそっくりそのまま受け入れたわけではありませんでした。彼らは、それまでの大乗仏教の教えをより一層押し進め、また、日本古来の思想を取り入れて、いわば「全く新しい」大乗仏教を作り上げてしまいました。

ポイントは、「救われるのは誰か」というところにあります。

 

※   ※   ※

 

小乗仏教によって救われるのは、出家して戒律を守り、煩悩を捨てることのできる一部のエリートたちだけでした。これに対して、大乗仏教は、煩悩とともに生きざるをえない一般の人々が救われる道を説いた仏教です。わかりやすく言えば、大乗仏教の誕生は、それまで「1%のエリート」のための宗教であった仏教の門戸を「99%の一般大衆」のために開放したという意義があります。

 

ところが、日本の大乗仏教は、この「門戸」をさらに広げました。では、誰に対して広げたか?

彼らは「救い」の門戸を、無生物である山や川を含め、人間以外の生きとし生けるものにまで押し広げたです。「草木国土悉皆成仏」とか、「山川草木悉皆成仏」などという言葉は、「人間だけでなく、山・川・国土・草木をはじめ自然界に存在するありとあらゆるものには仏性が宿っており、それらは全て成仏できる(救われる)」という意味です。

 

ここに至って、仏教は「人間中心主義」から脱皮したと言えるでしょう。それまでの小乗仏教大乗仏教の関心事は、主に「欲望を持つ人間がどうやって苦しみから開放されるか」という点にありました。その意味で、それらの思想は「人間」という枠にとらわれた考え方でした。

 

ところが、大乗仏教は、山や森に存在するありとあらゆるものに神性が宿るという日本古来の自然崇拝の思想と出会い、「救い」の対象は人間以外にも広がっていったのです。

 

日本の仏教者達は、以上の思想を土台として、オリジナリティあふれる様々な仏教を生み出しました。今日でもよく見られる、真言宗・浄土宗・浄土真宗・日蓮宗曹洞宗臨済宗などの日本の各宗派は、この流れの中に位置づけられます。 

人間の煩悩や苦しみのことばかり考えていたそれまでの仏教は、 自然界のあらゆるものを敬い、それらに慈しみの目を向ける日本土着の思想と融合し、山川草木悉皆成仏の思想が生まれました。

 

釈迦は、原始仏教という仏教の「種」を蒔きました。そして、一粒のどんぐりが大空にそびえる立派な樫の木に成長するように、原始仏教は形を変えながら、中国や日本の大乗仏教へと育っていったのです。一口に仏教と言っても、そこには様々な顔があります。僕たちは、自分にとってもっとも心地よく感じられる「顔」を探していけばよいのではないかと思います。