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人を殺す宗教を尊敬できる?―宗教を観察する「5つの側面」

 
残念なことに、時として宗教は人々を殺しまくる。歴史的には多くの宗教戦争があり、十字軍もあった。今でも宗教にまつわるテロは絶えず、世界はその蛮行に怯えている。それでも僕たちは、宗教を尊敬し、肯定することができるのか?それが今日のテーマだ。
 
このテーマを論じるにあたり、まずは僕が考えるところの「宗教の5つの側面」を紹介させてほしい。宗教に関する人間の営みは、たいていこのいずれかに分類されると言ってよいと思う。 
 
 
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①信仰としての側面
 
まずは宗教の最も純粋な形だ。「イエス・キリストの教えに出会って救われた」「アッラーの偉大な力に人生を捧げたい」「村一番の大木には村の守り神が宿っている」…このように、神や宗教を心の拠り所にしたり信じたりする営みが「信仰」としての側面だ。
 
 
②生活規範としての側面
 
多くの宗教は、人々が生きるためのルールを定めている。例えば「モーセの十戒」には、「盗んではならない」「隣人の妻を欲してはならない」などと定められていいる。イスラム教徒にあっては、「1日5回の礼拝を行うこと」「ラマダン月に夜明けから日没まで食物と水を口にしないこと」などが義務とされている。…こうして、宗教は人々の生活の規範としての役割も果たす。
 
 
③社会的集団としての側面
 
同じ信仰を持ち、同じルールの下で生活する人々は、自然と集団を作るようになる。もしくは、一つの集団に属する人々は、同じ信仰やルールを共有するようになるという方が正確かもしれない。いずれにせよ、一定規模の集団になると、それは社会的な力を持つようになる。
例えば、中世ヨーロッパのカトリック国家や現代のイスラエルなどは、まさに宗教的な「社会的集団」だ。それほど大きな集団でなくとも、日本を含め世界には無数の宗教的な集団があり、それらは社会的な存在として意味を持っている。
 
 
④文化・風習としての側面
 
人々の信仰の対象や生活規範となった宗教は、 やがて彼らの生活に浸透していき、それが文化や風習となって定着することになる。クリスマスや初詣といった年中行事や、結婚式やお葬式といった冠婚葬祭の儀式などは、宗教の「文化・風習」としての側面といえる。
 
 
⑤世界観・歴史観としての側面
 
最後に、「人間や動植物は神によって創造された」「イエス・キリストは十字架に架けられた後に復活(蘇生)した」「宇宙の中心には大日如来が存在し、森羅万象はその顕れである」「イザナギイザナミは大地をかき混ぜて淡路島を作った」…といった類の話は、宗教が世界の成立ちや歴史を語る側面だ。この側面は、往々にして科学的な知見と衝突し、その真偽が問われることがある。
 
 
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大切なことは、ここまで述べた「5つの側面」は、互いに密接に関連し合っているだけでなく、それぞれ別個の要素であるということだ。だから僕たちは、各側面を切り離した上で、ある宗教を観察しなければならない時がある。
 
今日のテーマとの関係で言うと、社会的集団であるイスラム国の蛮行は、イスラム教の持つ信仰・生活規範・文化・世界観とは直接的には関係がない。(もちろん、間接的には大いに関係があるとは思うが。) 
個人的には、社会的集団としての宗教が見せる残忍さは、その宗教そのものの残忍さというよりは、人間本来が持っている残忍さの顕れなのではないかと思っている。人間本来が持つ残忍さが、たまたま宗教という衣装をまとっていると思うわけだ。
 
以上を前提とすると、社会的集団としての宗教が「悪い」ことをしているからといって、その宗教の信仰の側面まで否定する理由にはならないことになる。何のひねりもない答えで恐縮だが、これが僕の結論だ。宗教の本質はあくまで信仰にあり、それが価値あるものである限り、尊敬に値するといえるのではないだろうか。
 
たしかに、本や新聞で取り上げられる「宗教」は、②〜⑤の側面に関するものがほとんだ。(それらは説明しやすいから) 
しかし僕は、宗教というものは、信仰の側面に正面から向き合わない限り、決して共感できないものだと思う。だから、ある宗教について少しでも知りたいと思った時には、その信仰が何かを探っていくのが一番の近道だ。その信仰に少しでも共感できるところがあれば、②〜⑤の側面を含めもっと掘り下げていけばよいし、あまりピンと来なければ、他の宗教に目を転じてみればよいのである。
 
 
※「宗教の5つの側面」は自分が勝手に唱えている仮説なので、根拠はありません。もしご指摘あればぜひ教えてください!